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講談師が解説!三春町と只見町の魅力を動画で発信します。
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有力東北諸藩に囲まれた小藩の三春藩が、「奥羽越列藩同盟」の加盟を拒否できる道はなかった。
新政府軍が目前に迫ったある日、三春藩郷士・河野広中はある行動に出た。その顛末は?
慶応4年(1868)4月、江戸城は無血開城を果たした。新政府軍の次なる目標は、会津藩など東北諸藩を従えることにあった。しかし、東北諸藩は必ずしも新政府軍との衝突は望んでいなかった。平和的解決を求め、会津藩と庄内藩の赦免を働きかけるが、新政府はこれを認めなかった。かくして東北・越後の諸藩は「奥羽越列藩同盟」に至る。僅か石高5万石の三春藩は、「尊皇」の志が強く、新政府軍に敵対することは、本意ではなかった。しかし、多くの有力東北諸藩に囲まれた小藩の三春藩が、加盟を拒否できる術はなかったのだ。
列藩同盟に加わった三春藩が、朝廷に対して尊皇の想いを伝えると、朝廷からは志をたたえ、救援に向かうという勅書が届いた。(福島県立博物館蔵)
棚倉城が、わずか一日で陥落。新政府軍を指揮していたのは、あの板垣退助である。「次は、我が三春か」、三春藩の郷士・河野広中の腹は決まった。「板垣と談判する。我が三春の尊皇の志を訴え、新政府軍への帰順を受け入れてもらう。それ以外、殿の名誉と三春の領民を守る手立てはない」。河野は、板垣退助に面会を申し出ると、三春藩の窮状と尊皇の志を訴え新政府軍加盟を申し出た。板垣は「造反ではないのか」と問うた、河野は「錦旗に背くことこそ造反の極み。尊皇こそが我ら日本武士の本懐にござる」と返したという。こうして小藩・三春藩は、領土と民、そして主家の名誉を守り切った。戊辰戦争の奇跡、三春の無血開城である。
戦わずに降伏したことが各藩に伝わり、藩士4名が惨殺。彼らを慰霊し、藩の正当性を主張する石碑が城跡に残っている。
芹ケ沢桜/菜の花咲く丘の上に立つベニシダレザクラ
慶應4年、鶴ヶ城落城によって会津戦争は終結した。
しかし、只見を始めとする奥会津の地では、5日間も激戦が繰り広げられたのだ。
その真相に迫る。
慶応4年(1868)1月、京都の鳥羽伏見の戦いで始まった戊辰戦争。鶴ヶ城下の会津の戦いは広く知られるところだが、只見や田島など奥会津での戦いは意外と知られていない。もともと奥会津では中世以来の領主と家来の主従関係が幕末まで続き、部隊の主力は帰農した郷兵や農兵だった。圧倒的な新政府軍の兵力に奥会津軍勢はどう戦いを挑んだのか。その答えは新政府軍に同行していた絵師「奥越出兵図屏風」に見ることができる。山から雪崩を打つように下る軍勢の姿である。彼らは地元の地の利を生かし、山に隠れて敵を打つゲリラ戦だったと考えられている。峠の細道を利用し、少人数で敵を急襲、その繰り返しで勝機をつかんでいった。
奥越出兵図屏風
奥会津軍勢は有利に戦局を進めていたが、「会津藩が降伏した」との一報が隊を率いていた会津藩・家老の佐川官兵衛のもとに届いた。「田島町史」によれば、官兵衛は「新政府軍総督に会津が朝敵でないことを訴えよう、それが認められなければ降伏の命には従えない」と言い放ったという。その説得に時間がかかり、奥会津での終戦が5日間遅れたのではないか。忠義を尽くす、会津人らしいエピソードだ。
医王寺にある河井継之助の墓
只見町河井継之助記念館に展示されているガトリング砲のレプリカ
長岡藩藩士の長男として城下に生まれる。
慶応4年(1868年)、戊辰戦争が始まると長岡藩の軍事総監となり、巧みな戦術と当時日本に3本しかなかったガトリング砲で新政府軍と互角に戦うが、敵の奇襲攻撃に会い重傷を負う。千数百名の藩士と共に再起を賭け会津を目指し、長岡と会津の国境にある難所八十里越えに臨んだ。会津藩領の塩沢村(福島県南会津郡只見町)で休息をとり、村医の矢沢宗益宅で傷の手当てを受けたが、只見の人々の尽力も空しく息を引き取った。