MODEL COURSE
モデルコース
その進軍・攻防の歴史を追体験する
- 01小峰白河城
- 02二本松城
- 03聖徳太子堂
- 04母成峠
- 05白虎隊記念館(飯盛山)
- 06会津武家屋敷
- 07会津藩校日新館
- 08鶴ヶ城(会津若松城)
小峰白河城は奥州関門の名城と謳われ、東北最大の要衝でもあった。そのため戊辰戦争では、白河城をめぐり、旧幕府軍側と新政府軍の間で激しい攻防戦が繰広げられた。奥羽越列藩同盟が一度、城を占拠するものの、やがて新政府軍に城を奪われてしまう。その後、何度も奪還を試みるも惨敗。撤退を余儀なくされる。この白河での敗戦が、東北戦争の戦局を決定づけたと言われる。両軍あわせて千人以上が犠牲となった。 土塁や石垣などが現存しており、近年は復興計画も進み、焼失した天守や門も復元される。
住所/福島県白河市郭内
http://shirakawa315.com/sightseeing/komine.html
白河での勝利で勢いを得た新政府軍は、さらに北に軍を進め、ついに二本松城に攻め入ることになる。白河城の戦いに戦力を集中させていた二本松藩では、兵力不足のため、13歳から17歳の少年たちも戦闘に加わることなり、その多くの少年兵たちが激戦の末に戦死した。城郭入口にはその「二本松少年隊」の顕彰碑がたつ。
住所/福島県二本松市金色403番地1
http://www.nihonmatsu-ed.jp/nihonmatsujyou/
聖徳太子堂の脇道には、かつて会津まで続く旧会津街道が通っており、一帯は温泉街・宿場町として栄えていた。戊辰戦争では、会津への侵入を防ぐ重要な箇所として考えられ、守備が固められるも、新政府軍の勢いを止めることができず、やがて撤退。会津軍はその際、西軍の拠点になることを恐れ、土湯の全村に火を放ち、この太子堂の脇道を通って会津に退却していったと言う。現在も土湯は温泉街として残っており、大小の旅館・ホテルが建ち並んでいる。
住所/福島県福島市土湯温泉町
http://www.tcy.jp/exp/3
二本松城の陥落により、同盟軍は会津の東側の藩境である母成峠まで新政府軍の侵攻を許すことになる。新撰組の土方歳三などが迎え撃つものの、兵力及び兵器で劣る同盟軍は新政府軍にここでも破られ、敗走。この母成峠での敗戦を契機に、新政府軍が会津藩内になだれ込むととなる。現在は戦場碑がたつ。
住所/福島県耶麻郡猪苗代町蚕養
母成峠での敗戦以降も、新政府軍の勢いは止まらず、ついに会津若松城下まで侵攻を許すことになる。鶴ヶ城(会津若松城)を守るべく奮戦していた「白虎隊」も、飯盛山まで潰走せざるを得ず、最期は市中火災の模様を落城と誤認し、その場で自刃。20名中19名が命を落とした。 「白虎隊記念館」はその飯盛山の麓にある資料館。昭和31年に会津出身の弁護士、故・早川喜代次氏によって、「白虎隊」をはじめとした会津の悲劇を後世に伝えるために創立された。 飯盛山の山腹には、この地で命を絶った白虎隊士の墓もある。
住所/福島県会津若松市一箕町大字八幡弁天下33
http://www.byakkokinen.com/
会津藩家老であった西郷頼母の邸宅が復元され、見学ができる。 新政府軍が城下まで侵攻した際、藩士の家族が次々と城内に避難する中、西郷一族の婦女子21名は、家老屋敷に集まり、城内で足手まといになることを避けるため、また捕らわれの恥辱を受けまいと、自害した。会津武家屋敷では、人形でリアルにその自決の様子が再現されている。
住所/福島県会津若松市東山町大字石山院内1
http://bukeyashiki.com/
会津の藩校・日新館を復元した施設。日新館は人材の育成を目的に1803年に建設された会津の最高学府。白虎隊の隊士も日新館で学び、優秀な人材を多数輩出している。施設では、当時の学習の様子を観覧できるほか、茶道や弓道体験もできる。会津藩士が決死の覚悟で戊辰戦争を戦い抜いた理由は、ここ日新館での教育の影響が大きい。
住所/福島県会津若松市河東町南高野字高塚山10
https://nisshinkan.jp/
会津戦争の終焉の地。1ヶ月間にも及ぶ籠城戦に耐え抜いた難攻不落の名城。 籠城戦の末、城内の被害の大きさを目にした会津藩主・松平容保はついに降伏を決意。明治元年(1868年)の9月22日、鶴ヶ城の北追手門についに白旗があげられた。 日本100名城のひとつにも選出される。国指定史跡。
住所/ 福島県会津若松市追手町1−1
http://www.tsurugajo.com/turugajo/shiro-top.html